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主要都市や軍港

日本政府は、主要都市や軍港、商港の近くに多数のユダヤ人難民を抱えることを不安視するようになった。1941年8月に、神戸のユダヤ人は上海へ再配置されることが決定した。難民到着以前に神戸に居住していた人々だけが、同地に留まることを認められた。なお、同年6月にドイツが不可侵条約を破棄し、ソ連に宣戦布告した(独ソ戦)ことを受け、ウラディヴォストーク?敦賀間の船便は運航を終了している。

1941年には、日米間の和平交渉が決裂、12月に太平洋戦争が勃発する。これにより、アメリカのユダヤ資本導入の道は閉ざされた。こうした内外の情勢の変化は、計画の実質的な破綻をもたらした。

大東亜戦争開戦後、日本は上海全域を占領した。ユダヤ系アメリカ人からの資金援助及び全ての連絡は、英米対敵通商法(Anglo-American Trading with the Enemy Act)によって事実上途絶した。法的には、上海におけるユダヤ難民への連絡と援助に関するアメリカ財務省の規制は相当緩かったが、アメリカのユダヤ人組織は強い愛国心を示し、反逆活動の切っ掛けを与えぬよう主張した。

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1942年に日本政府は、既に有名無実となっていた支援を完全に中止して、五相会議決定「猶太人対策要綱」を公式に無効にした。

日独防共協定に基づき設けられた駐日ドイツ大使館付警察武官として1941年5月に東京に赴任した「ワルシャワの虐殺者」と呼ばれる親衛隊大佐ヨーゼフ・マイジンガー (Josef Meisinger) は、1942年6月に、ハインリヒ・ヒムラーの命を帯びて上海に赴いた。彼は日本に対し、上海におけるユダヤ難民の「処理」を迫り、以下の3案を提示した。

黄浦江にある廃船にユダヤ人を詰め込み、東シナ海に流した上、撃沈する
岩塩鉱で強制労働に従事させる
長江河口に収容所を建設し、ユダヤ人を収容して生体実験の材料とする
要するに、彼はヒトラー及びヒムラーのユダヤ人大虐殺計画をアジアへ持ち込んだのである。この案は安江を経由して松岡洋右外相に伝えられたが、日本政府はこのような提案に従おうとしなかった。結局マイジンガーの計画は、いわゆる「上海ゲットー」を形成するのみに留まった。上海のユダヤ人は特定の地区に居住することを強いられ、そこから出ることを禁じられた。

以後終戦までの間、難民にとって状況は良くなるどころか悪化した。ユダヤ人指導者の中には、敵国人によって刑務所に送られた者もいる。また、多くの上海市民同様多くのユダヤ人は飢餓に陥っていた。市内の無線機破壊を目論むアメリカをはじめとする連合軍の航空機によって、終戦のわずか数か月前に「ゲットー」は爆撃を受けたが、やがて解放された。
法研究における中心地の1つであり、唯一ホロコーストを切り抜けたヨーロッパのイェシーバーであるミール・イェシーバーの面々は、杉原のヴィザによって襲撃を免れた。

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2009年04月28日 09:50に投稿されたエントリーのページです。

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